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ファン・ゴッホに迫る

日本のインスピレーション

日本の版画芸術はファン・ゴッホの最も重要なインスピレーション源で、彼は熱心なコレクターでもありました。浮世絵版画は彼にとって刺激剤で、それまでとは違った物の見方を教えてくれました。 しかし、彼の作品はそれによって根本的に変化したのでしょうか?

そしてぼくが思うに、もっと陽気で幸せにならなければ日本美術を研究することはできないだろう。日本美術は、因習にとらわれた教育や仕事からぼくたちを解き放ち、自然へと回帰させてくれる.


1888年9月23日か24日、アルルにて、弟テオあての手紙

東洋芸術との出会い

19世紀後半、日本から渡来するものは何から何までもてはやされる時代でした。フィンセントもこの「ジャポニスム」の洗礼を受けました。

オランダで日本の芸術を研究する芸術家はほとんどいませんでしたが、パリでは大流行でした。フィンセントはパリで、西欧世界における東洋芸術のインパクトを目の当たりしました。当時、彼はまさに、絵画の近代化に取り組んでいました。

+新しい視点

歌川国貞(三代目豊國)《卯月 十二月の内 初時鳥(初ホトトギス)》1884年

+新しい視点

日本美術は長い間、西欧世界にとって未知の領域でした。1859年に日本が開国すると、海を渡り貿易が盛んに行われるようになりました。やがて、東洋芸術や日用品はヨーロッパ中に広まりました。とりわけ版画はまもなく西欧の芸術家の間で大変な人気を呼びました。

彼らの作品は西洋の常識を覆すものでした。特に異国的で鮮やかな色遣いは人々の目を奪いました。また、日本的な空間処理も斬新と受けとめられました。日本美術の作例は西欧美術に新たな方向をさし示したのです。

フィンセントが浮世絵版画のセットを初めて買ったのは、アントワープ滞在中のことでした。彼は室内の壁に版画を画鋲で留めて飾りました。そして、弟テオあての手紙に、自ら思い描いた異国の街の様子を書き綴りました。

絶大な人気

1862年の万国博覧会の日本展示会場

絶大な人気

東洋芸術が爆発的なモードになったのは、それまであまり知られていなかった日本の文化が万国博覧会で紹介されたときでした。万博は1862年にロンドンで、その後1867年にパリで開催され、西欧の人々は、着物・扇・日傘・漆器のほか屏風などの日本の美術工芸品の虜となりました。

雑誌

雑誌『Le Japon Artistique (藝術の日本)』の表紙

雑誌

東洋からの珍しい産物は、パリの伝説的美術商ジークフリート・ビングらによってもたらされました。ビングは1888年5月から1891年4月まで、東洋美術や工芸品を扱う雑誌を自ら刊行しました。ファン・ゴッホも『藝術の日本』を愛読していました。

僕の仕事場はまあまだ。特にとても楽しい日本の版画を壁に貼ったおかげだ。ほら、庭で憩う女性とか、海辺、馬に乗る人、花や、節くれだったとげのある枝とかのだよ。


1885年11月28日、アントワープにて、弟テオあての手紙

パリの日本

1886年の初めごろ、ファン・ゴッホはパリに住んでいた弟の元に身を寄せました。二人は一緒に版画を収集し、コレクションは相当な数に上りました。ファン・ゴッホはまもなくこれらの木版画に単なる楽しみ以上の意味を見出すようになります。彼は日本の版画を芸術的作例としてとらえ、西洋美術史上の傑作と同様に重要な作品とみなしました。

展覧会

Vincent van Gogh, In the Café: Agostina Segatori in Le Tambourin, 1887

展覧会

パリ滞在2年目に、ファン・ゴッホは自らの浮世絵コレクションの展覧会をカフェ・レストラン「ル・タンブラン」にて開きました。このカフェの女主人アゴスティーナ・セガトーリは当時、彼の恋人でもありました。

ファン・ゴッホは、自分の浮世絵版画を背景にした彼女の肖像画を描いています。彼は版画に買い手がつくことを期待していましたが、現在のところ実際に売れたという記録は残っていません。

版画の購入先

《三冊の小説》1887年の作品の裏側

版画の購入先

ファン・ゴッホは《三冊の小説》を木箱のふたの裏側に描いています。木箱は、起立工商會社(きりゅうこうしょうかいしゃ)という日本の商品をヨーロッパ市場向けに輸出する日本の貿易会社のものでした。ファン・ゴッホが版画をビングの画廊で購入したことがあるのは確かですが、この木のふたから彼がこの会社にも足を運んでいたと推測することができます。

Vincent van Gogh, Three Novels, 1887

日本人として

モーリス・ギベール、日本人として装うアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの写真、1890年頃 ニューヨーク近代美術館/フィレン<br>ツェ、スカラ座

日本人として

ファン・ゴッホはパリに移る前から版画を収集していましたが、本当に熱心にコレクションし始めたのはパリに住むようになってからでした。パリではまさに日本がモードでした。日本美術の熱狂的な収集家であったフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックといった芸術家仲間たちの影響もあったと思われます。

当時のファン・ゴッホのコレクションの点数は明らかではありません。手紙の中で彼自身は「数百点」と書いています。

コレクション

《ジュリアン・タンギーの肖像》1887年 <br>パリ、ロダン美術館

コレクション

ファン・ゴッホは、タンギーじいさんの愛称で知られる絵具屋兼美術商の肖像画の背景に日本の版画を描き込んでいます。これらの浮世絵はおそらくファン・ゴッホ自身のコレクションにあった作品と思われます。ここに描かれている木版画のほとんどは、実際どの作品をもとに描かれたかが分かっています。

Utagawa Kunisada, 役者と詩 [無題揃い物] 岩井粂三郎 (三代目) 三浦屋の高尾, 1861

Utagawa Hiroshige, 富士三十六景 さがみ川, 1858

Utagawa Hiroshige, 五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら 範頼の祠, 1855

日本の芸術は、中世、ギリシャ時代、我がオランダの巨匠レンブラント、ポッター、ハルス、フェルメール、ファン・オスターデ、ライスダールの芸術と同じようなものだ。いつまでも生き続ける。


1888年7月15日アルルにて、弟テオあての手紙

空間処理と色彩

日本の芸術家は、手前と奥の間の空間を構図の中から省くことがよくあります。手前にあるものはしばしば誇張して大きく描写されます。また、画面の枠外に地平線が設定されている例も多々あります。あるいは、画面の端で描かれているものを故意に断ち切ることもあります。

西欧の芸術家たちがこれらすべてから学んだことは、必ずしも伝統に則った手法で―除き箱をとおして見たように手前から画面の奥を覗くように画面を構成する必要はないということでした。

模写

ファン・ゴッホは日本の版画の模写を数点制作しています。この作品の中で、彼は梅林をオレンジ色の枠で取り囲み、その枠に漢字を描き入れています。彼は漢字をほかの木版画の中から写しました。これによって異国情緒が強調されています。

Vincent van GoghFlowering Plum Orchard (after Hiroshige), 1887)
Utagawa Hiroshige名所江戸百景 亀戸 梅屋舗, 1857)

Vincent van Gogh, Tracing of 'The Plum Tree Teahouse at Kameido' of Hiroshige, 1887

歌川広重の版画を模写するにあたり 彼はカンヴァスの上にこの紙をのせて下描きしました。

ジャポニスム

ファン・ゴッホの時代に日本の様式を取り入れて制作された美術作品をジャポネズリと呼びます。この雨の橋の絵も、ジャポネズリの作品です。彼は有名な日本の浮世絵師、歌川広重の版画を手本に用いました。

Vincent van GoghBridge in the Rain (after Hiroshige), 1887)
Utagawa Hiroshige名所江戸百景 大はし あたけの夕立, 1925 - 1935)
独自の付け足し

ファン・ゴッホはこの美人画を、雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集号(1886年5月)の表紙をもとに描きました。この女性が花魁(娼婦)であることは、帯が背中ではなく正面で結ばれていることからわかります。

Vincent van GoghCourtesan (after Eisen), 1887)
雑誌『パリ・イリュストレ』4号の表紙、1886年

佐藤虎清(版元)《芸者のいる風景》<br>1870年-1880年の部分図

ファン・ゴッホは花魁の周りに泉を配し、竹、睡蓮、カエル、鶴を描き込んでいます。それらのモチーフは彼女の仕事を暗示しています。鶴のフランス語であるgrueには、娼婦という意味もあります。

佐藤虎清(版元)《芸者のいる風景》1870年-1880年

歌川芳丸《新板虫画》より部分図、1883年

カエルのフランス語grenouilleは卑しい女の代名詞でもあります。

歌川芳丸《新板虫画》1883年

ファン・ゴッホは日本美術の中に発見したものを自らの作品に取り入れました。彼は、日本美術の特異な空間効果、強烈な色彩の広い平面、日常的な主題、そして自然の中の細部へのこだわりに魅力を感じました。また、その異国情緒や楽しげな様子も魅力的に感じました。

画面

Vincent van Gogh, Kingfisher by the Waterside, 1887

画面

ファン・ゴッホは、日本の版画帖の中の作品を参考にこの小さな作品を描きました。水平線は絵の枠外に押し出され、芦の線によって画面が断ち切られています。

Utagawa Hiroshige III, 新撰花鳥尽 水葵 鴫 川翠, 1871 - 1873

新しい様式

日本の版画を模写するだけではとどまりませんでした。ファン・ゴッホの芸術家仲間エミール・ベルナールは、近代芸術が向かうべき方向について新たな概念を発展させました。日本の版画を手本に、彼は自らの絵の様式化を進めました。彼は単純化した色彩の広い面と太い輪郭線を用いました。

ベルナールの影響を受け、ファン・ゴッホも目の錯覚を利用した画面の奥行き表現よりも平面的に描こうとしました。ファン・ゴッホは自らの作品の中で、渦巻くような筆致と組み合わせて平面性を追求しました。

黒い平面

エミール・ベルナール《ベルナールの祖母》1887年

黒い平面

ファン・ゴッホは自らの自画像とエミール・ベルナールが描いたこの作品を交換しています。ここで目を引くのは大きな黒い色面です。ファン・ゴッホと同年代の画家たちは黒をあまり用いませんでした。ファン・ゴッホはベルナールに、彼の最も素晴らしい作品だと思うと伝えました。

大胆な構図

《子守りの女(マダム・ルーランの肖像)》1889年<br> ニューヨーク、メトロポリタン美術館

大胆な構図

ファン・ゴッホは、この作品を自由闊達な筆さばきで描きました。彼はこの筆遣いと、日本美術から取り入れた太い輪郭線で取り囲む鮮やかな色面を組み合わせています。

見てごらん、僕たちは日本の絵画芸術が好きなんだ、僕たちはその影響を受けているんだ―印象主義者はみな共通してその影響を受けている―では、日本に行かないならどうするか、日本と同じようなところ、南(フランス)だろうか?僕は新しい芸術は結局のところどうしたって南にあると思っている。


1888年6月5日頃、アルルにて、弟テオあての手紙

南フランスの日本

二年のパリ滞在ののち、ファン・ゴッホは都会の雑踏を後に旅立ちました。南フランスのアルルに彼が向かったのは1888年2月のことです。彼がアルルに求めていたのは安らぎ以外に東洋の版画の中の明るい光、陽気な色彩効果でした。汽車の中でも「もう日本に着いたかもと外をずっと見ていたよ!」「子供じみているだろう?」と、同様に日本の版画の影響を受けていた友人の画家ゴーガンに書き送りました。

日本人の見方

Vincent van Gogh, Butterflies and Poppies, 1889

日本人の見方

ファン・ゴッホの版画コレクションはパリの弟テオの元に残されました。彼はすでに「日本人のものの見方」を習得していたので、アルルにもっていく必要がなかったのです。彼は日本の版画のように地平線を構図に入れないか、あるいは低い位置に配しました。また、日常的な何の変哲もない自然の一コマ、花や昆虫を綿密に描きました。

onbekend/unknown, 秋の花 黄色の鳥 虫, 1875

「僕はいつも自分が日本にいるのだと思うことにしている。ただ目を開けて、身の回りにあるものの中から目についたものをただ描きさえすればいいのだと言い聞かせている。」

1888年9月9-14日アルルにて、妹ヴィレミーンあてのゴッホの手紙

ゴーガン同様、ファン・ゴッホも芸術家は鮮やかな色彩を求めて南の未開の地へ向かうべきだと信じていました。彼がアルルに向かったのもそうした考えからでした。

同志

《自画像》1888年 ケンブリッジ(マサチューセッツ)、<br>ハーヴァード大学美術館、フォッグ美術館

同志

ファン・ゴッホは日本の芸術家たちが作品を交換し合っていると思っていました。彼はゴーガンとベルナールに同じことを提案し、お互いの肖像画の制作を頼みました。実際には、二人とも自らの自画像を描き、その代わりにファン・ゴッホも日本の修行僧―釣り目で短く髪を刈り込んだ姿の自画像を制作して送りました。

Emile Bernard, Self-Portrait with Portrait of Gauguin, 1888

フィンセントはベルナールに次のように書き送りました。

「前から日本の芸術家たちが仲間同士でよく作品を交換することに感銘を受けていたんだ。それは、彼らが互いに認め合い、強い絆で結びつき、彼らの間で調和が保たれていたこと、そして実際、運命共同体のように生活していた証拠
だ(…)。彼らのようにすればするほど、僕たちの関係もうまくいくだろう。」

Paul Gauguin, Self-Portrait with Portrait of Emile Bernard (Les misérables), 1888

時が経つにつれものの見方が変わり、ますます日本人のようなものの見方をするようになり、色彩も違うように感じられてくる。僕の人格もここに長くいたら変わってくるに違いないと確信している。


1888年6月5日アルルにて、弟テオあての手紙

夢破れる

ファン・ゴッホはアルルで芸術家の共同体を設立したい―日本の仏教僧たちのような共同生活をしたいと願いました。結局やってきたのはゴーガンひとりでした。彼は空想を用いて絵を描き、ファン・ゴッホにも絵を様式化するように勧めました。絵は、写真のようであってはならないというのが彼の意見でした。

大胆な構図

《レ・ザリスカン》1888年 オッテルロー、クレラー=ミュラー美術館

大胆な構図

ファン・ゴッホはこの作品の中でゴーガンに対し、ゴーガンと日本の木版画から何を学んだかを示しました。彼は以前にもまして作品を様式化しました。この場面は鳥瞰図的に(上からの視点で)捉えられ、地平線は画面外に設定されています。構図は斜めの線が強調され、色面を分断する木の幹によって画面が断ち切られています。

的確な素描

Vincent van Gogh, Farmhouse in a Wheatfield, 1888

的確な素描

「日本人の素描は素早い、稲妻みたいだ。彼らの神経は鋭く、感情が純朴だからだ」とファン・ゴッホはテオに書きました。

彼は自分でも自由自在かつ的確に素描を制作しようと試みました。そしてそれはうまくいきました。彼の素描は波打つような線や点で生き生きとし、目新しい様式となりました。

しかし、ファン・ゴッホとゴーガンの意見はあまりに違いすぎました。数か月の共同生活の後、ゴーガンはパリに帰ってしまいます。

ファン・ゴッホの病の兆候はこの時初めて表れます。彼は病院、そして後に療養院に入院し、自信を失ってしまいました。未来の美術の発展に寄与するという夢はあまりに高い目標に思われました。手紙からも日本の版画芸術に関する記述が次第に消えていきました。

クローズアップ

Vincent van Gogh, Almond Blossom, 1890

クローズアップ

この春の花の絵は、ファン・ゴッホの生まれたばかりの甥のために描かれました。主題は日本の版画からインスピレーションを得ています。画面中央の大きな枝の配し方からそれが分かります。彼は見上げるような視点で枝をクローズアップして描いています。

文鳳《撫子の習作》『藝術の日本、美術・産業資料』1888年5月第1号より

大きな色面

Vincent van Gogh, The Bedroom, 1888

大きな色面

ファン・ゴッホは自分の寝室を描いたこの作品を意識的に平面と鮮やかな色彩で構成しました。陰影もすべて省かれています。日本の版画のように描いた、とテオあての手紙に書きました。

日本の作例に倣った再生

ファン・ゴッホは生涯を通じて自然を出発点として制作し続けました。日本の芸術家もそうであることに彼は気がつきました。それと同時に日本の版画は彼に近代化のために必要なものを提供してくれました。彼は近代的かつ、よりプリミティブな絵画芸術への時代の呼び声に応えたいと考えていました。日本美術はその大きな色面と様式によって、自然を起点に置いたままで進む道を彼に示したのでした。

僕の作品はすべてどこかしらジャポネズリだ…


1888年7月15日アルルにて、弟テオあての手紙

ここに掲載された文章は、1970年日本万国博覧会記念基金のご協力を得て作成されました。

その他

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ゴッホ美術館が所蔵するファン・ゴッホの浮世絵コレクションを探索してみよう

フィンセント・ファン・ゴッホの生涯(英語)

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